対人援助を考える。

対人援助の仕事を通じて考えたことの備忘録です。

新たな発見を導くこと

 年末年始は,「Motivational Interviewing in Groups」の中の翻訳されていない章を読むことに費やしました。MIの学習歴は長くなっているので,完全に未知の内容はありませんが,ハッとさせられたのは,クライアントが維持トークを話している時,彼らは既に知っていることを話しているに過ぎない,という内容の一節でした。そこに新たな発見はないということです。

 こう考えると,クライアントの発言がチェンジトークであったとしても,新たな発見を伴わない内容であれば,行動変容に繋がらないということが言えるかもしれません。最近のMIの研究の中で,チェンジトークと結果との関連が見られなかったというものがありますが,クライアントが新たな発見をしているか否かが関係しているのでしょう。つまり,フォーカシングで言うところの「体験過程」が重要ということです。普段の臨床では,フォーカシングの手続きを用いることは難しいので,どのような質問や聞き返し,面接の組み立て方が少しでもクライアントの実感や新たな発見を伴ったチェンジトークを引き出すことになるのか考えていきたいと思います。

 今年も実践しながら,多くを学び,このブログを通じて考えを整理していくつもりです。

グループワークにおけるリーダーとコリーダー

 先日,職場の同僚との会話の中で,グループワークのリーダーとコリーダーの在り方について考える機会がありました。

 その同僚とは,少し前まで自分がリーダー,向こうがコリーダーという分担で数か月協働しました。現在,同僚は他の人と組んでグループをやっているのですが,コリーダーである自分が出過ぎてしまっているのではないか,と折に触れて話します。リーダーは懐が深い人なので,コリーダーの動きに腹を立てたりするようなことはなく,むしろコリーダーの知識や経験に助けられていると言っていますが,コリーダーを務めている同僚は,自分の動きに疑問を抱いているようです。以下は,その同僚と話し合った内容です。

 リーダーとコリーダーの役割分担とは何なのでしょうか。自分が習った一例としては,リーダーがコンテンツを進め,コリーダーがグループプロセスを見る,というものです。関与が不十分な人に働き掛けたり,共通項を持つ人同士を繋ぐ,といった仕事です。実際には,リーダーもグループプロセスを気に留めるし,コリーダーは,リーダーの説明が不十分な場合などには,補足説明もするので,両者の役割をクリアに分けることはできません。同僚が気にしていたのは,本来リーダーに任せるべきところを自分が出しゃばっているのではないかということでした。なぜ前に出てしまうのかを尋ねると,今までの経験から,「この場面では,この介入が必要。」という思いがあったそうで,私からすると,それはそれでコリーダーが感じたままに動いており良いのではないか,という感想を伝えたのですが,同僚は,リーダーへの申し訳なさを感じたとのことでした。申し訳なさの背景を探ると,セッションを意味あるものにしたいという思いが見えてきました。私は,「大切な部分で,自分も同じ思いを持っています。一方,その日のセッションを良いものにしようとする努力は重要であるものの,セッションの円滑な進行自体は,我々の目的ではなく手段です。グループあるいはメンバー個々の目的達成のために,グループセッションという手段を用いていると思います。どんなに準備をしても,セッションがうまく行かないことはあり得るし,そうなったら,それが何を意味しているのかを考え,グループの目的達成のために活かせばいい。うまく行かない可能性を排除しようとするのではなく,起こり得るものとして想定しておくことは,グループを運営したり,クライアントを支援する上で,とても大切なことと思います。」と伝えました。こう考えておくと,自分の動きに過度な罪悪感を持たずに済むし,ゆとりも生まれるように思います。

 「AGPA集団精神療法実践ガイドライン」に書かれているセラピストの介入の4機能(運営機能,思いやり,情緒的刺激,意味帰属)をリーダーとコリーダーが協働して発揮できているかということが大切だと思います。難しいですが,やり応えのある挑戦です。業務の中で行うグループもあるし,1~2月には,講師依頼を4つ受けています。単に知識の伝達に終わるのではなく,相互作用が活発になり,深まる時間を作りだせるよう,コリーダーやメンバーと協働したいと思います。

 

AGPA集団精神療法実践ガイドライン

AGPA集団精神療法実践ガイドライン

 

 

「学ぶこと」についての雑感

 しばらく更新していませんでした。この間,岡山で行われた第18回認知療法認知行動療法学会に参加し,あるシンポジウムのシンポジストを務めました。思ったよりも盛況で,フロアには斯界のビッグネームの姿もあり,びっくりしました。いくつか聴いた講演からも色々と刺激を受けることができ,有意義な遠征となりました。

 最近は,「Motivational Interviewing in Groups」を読んでいます。もちろん,昨年出た翻訳本も持っていますが,残念ながら,訳出されていない章もあります。その中にある,まさに自分の臨床と直接関係する部分を訳しながら精読しているところです。動機づけ面接は,ここ数年で広がっていますが,まだまだ欧米ほどではないでしょう。興味深い本が多く出版されているのですが,日本語に翻訳されていないものが大半です。英語の勉強も兼ねて,自分で日本語に訳していく作業を自分に課していくことにしました。これによって何が得られるのかは,よく分からない部分もあります。要する時間を考えると,他の本を読んだり,勉強会に出たりする方が効率的な学習かもしれません。しかし,この取り組みを続けることで,今の自分にはまだ見えない何かが見えてくることは間違いないという確信があります。

 色々な研修に参加しており,定期的にスーパーバイズを受ける機会もあるし,ありがたいことに講師として招いていただき,様々な領域の専門家と学びあう機会もあります。人との交流から学ぶことが一番です。一方,それと同時に,人から学んだことを一人で咀嚼する時間が必要だし,人から最大限度を吸収できるような自分の構えを醸成する時間が必要であることも間違いないと思います。一人で自分の実践を見つめ直し,書物に向き合うような時間です。良い野菜が育つためには,良質な土が欠かせませんが,その土を作ることに例えられるかもしれません。

 今月は来週以降休みが多く,年末年始もあります。良書を読み,1月中旬に依頼されているワークショップのコンテンツを考えながら,自分の実践を見つめ直す予定です。とりあえず,グループMIの翻訳作業と,ポール・ワクテルの「心理療法家の言葉の技術」の再読を自分に課し,年末年始を過ごしていきます。何が見えてくるのか,それを1月のワークショップの中にどう活かすことができるのか楽しみです。

 

心理療法家の言葉の技術[第2版]―治療的コミュニケーションをひらく

心理療法家の言葉の技術[第2版]―治療的コミュニケーションをひらく

 

 

認知行動療法と精神分析

 週末は2つの勉強会に参加しました。1つはケースカンファレンス,もう1つはCRAについて。ケースカンファレンスは,精神分析オリエンテーションとする人が多いグループで,CRAは行動療法ベースのプログラムです。当然,参加者に重複はありません。

 自分自身は,基本的にはCBT,それも認知療法というよりも行動分析学が大好きです。しかし,最近は精神分析も少し学んでいます。精神分析系の人はCBTを表層的と評しますし,CBTの人は精神分析には根拠もエビデンスもないと言います。その人の好みで良いと思いますが,両方をつまんでいる者としては,どちらからも学ぶことはあります。というよりも,理解の枠組みや説明の仕方が違うだけで,起こっていることに大きな違いはないのではないかと思うのです。さすがにカウチに横になって毎日という正式な精神分析は別として,精神分析的な心理療法のことですが,無意識下に抑圧されたものを洞察することで変化が起こることと,中核信念が修正され,行動が変化することの違いは何でしょうか。アプローチの仕方は違いますが,それは,Aという道を選択するか,Bという道を選択するかの違いであって,結局,目指しているところは同じような気がします。どちらも,クライアントの認識の枠組みが変わることで変化が生じています。行動分析では中核信念をターゲットとしませんが,それでも,認知を「言語行動」と捉え,それが行動にどう影響するかは,「ルール支配行動」として整理されています。その辺は,いわゆる第3世代の認知行動療法として,認知の機能を変えるという視点が提唱されています。分析的に言うところの「洞察が進むと,今まで自分を支配していた考えから解放される」のだとすると,それは認知の機能が変わったことと同じなのではないかと思うのです。こういった考えを強化してくれたのは(この表現が自然に出てくる自分は,やはり行動療法に親和性が高いのでしょう),岡野憲一郎先生の「心理療法/カウンセリング 30の心得」の中の「心得7 心理療法には精神分析認知療法も同時に起きている」という項でした。ご一読をお勧めします。

 

 

心理療法/カウンセリング 30の心得

心理療法/カウンセリング 30の心得

 

 

 引き続き,クライエントの役に立つのではないかと思う様々なアプローチを学び続けていきたいと思います。

発達という視点の重要性~発達障害は特殊な現象ではない~

 数年前は、発達障害を有する方と関わることがメインでした。この頃の経験は、自分のなかで一つの核になっています。神田橋先生の「発達障害者は発達します」という名言に励まされ、彼らのちょっとした変化を信じて関わり続けましたし、滝川一廣先生の発達論を拠り所とし、彼らの特性をいわゆる定型発達とのスペクトラム上のものとして捉える視点を大切にしてきました。発達障害を特別なものとして捉えるのではなく、人間の精神発達の中で一定数起こり得るものとして捉えます。また、感覚や運動の発達の順序や流れを学んだことも大きく、心と身体がいかに結び付いているのかを痛感しました。平衡感覚と不安が関連しているという知見には、目から鱗の思いだったことを思い出します。
今関わっている対象者の中には、診断はされないまでも、ベースに発達上の課題があるのではと思われる人が少なくないです。また、本来クリアしておくべきだった課題が積み残されていることが問題の要因と思われるケースもあります。あくまでも仮説に過ぎないのですが、そういった視点を持つことで理解の幅が広がるように思います。一方、支援者間で温度差を感じることがあるのも事実です。Aさんの場合、何でもかんでも発達障害に関連づけてしまい、Bさんの場合は、発達という視点があまりなく、発達上の課題が人の言動に及ぼす影響への目配りが希薄といった具合です。もちろん、支援者の経験によって理解は異なります。日々話し合っていくしかないでしょう。

カール・ロジャーズと来談者中心療法再考。

 今日と明日の出張のお供は、「全訂 ロジャーズ」にしました。来談者中心療法やカール・ロジャーズについての論述集です。数年前に読んだものの再読です。先週末は、友田不二男の小冊子「非指示的療法」を読むなど、カウンセリングの基本に立ち戻りたいという気分があるようです。
 「話を聴くだけで変わるなら苦労はしない。」来談者中心療法に対する懐疑的な声の代表でしょう。私もそう思い、離れた時期がありました。認知行動療法は、来談者中心療法に感じた物足りなさを補ってくれましたが、いきなり技法を適用するようなやり方は成功せず、やはり、まずはクライアントに寄り添い、話を聴くことが土台であることを感じるようになり、来談者中心療法の意義を再確認するようになりました。
 来談者中心療法の意義を考える時、必ず思い出すエピソードがあります。まだ25歳の頃です。この職に就いて3年目でした。私個人に対してというよりも、システムに対する不満を強くぶつけてきた人がいました。それはもう、凄まじい勢いで恫喝してきます。色々言いたいことはありましたが、何を言っても聞く耳は持ってもらえないだろうということだけは分かりました。当時、話を聴くことが大事であることは知っていました。まさに、「知っている」だけで、技術は皆無に等しい状態だったはずです。しかし、やるしかありません。ひたすら話を聴き、時には、本人が述べたことを要約して返すなどしました。必死に聴いているうちに、相手のトーンが下がっていき、最終的には、落ち着きを取り戻してもらうことができました。この時、話を聴くことが持つ力を実感し、来談者中心療法を学ぶようになっていきました。
 もちろん、上記のケースは、話を聴いただけで全ての問題が解決したわけではなく、その後も色々ありましたが、少なくとも関係性を築くことはできました。後に学んだ動機づけ面接の4つのプロセスで言うと、関わる段階はクリアしたのです。動機づけ面接の4つのプロセスという考え方は、来談者中心療法への理解を深めてくれました。動機づけ面接に限らず、来談者中心療法から派生した各種方法を学ぶことは、来談者中心療法自体への理解を深めてくれるようです。
 話を聴くこと、共感は、人の変化をサポートするための十分条件ではないものの、必要条件だろうと思います。換言すると、「話を聴くだけでは、人は変わらない」けど、「話を聴かなければ、人は変わらない」ということではないでしょうか。

発達障害を抱えた方から学んだこと

 今は,発達障害の方を対象とした仕事をしていませんが,数年前までは,まさに発達障害を抱えた方がメインのクライアントでした。悪戦苦闘しましたが,今の自分にとっては,非常に大きな経験となっています。

 当時の現場で発達障害を抱えた方を対象とすることが決まった時,スタッフが皆で勉強し,何とか受け入れ態勢を作ったものです。私個人としては,発達障害に関する勉強は数年続けていたこともあって,ある程度の心構えは持っていたので,それほど慌てることはなかったのですが,実際に始まってみるとどうなるのだろうと,期待よりも不安があったことを覚えています。

 発達の凸凹に対応した支援をすることで自尊感情を回復するという方向性は良かったのですが,いざ始まってみると,「それは違うのでは・・・」という対応が見られるようになりました。指先が不器用な人がいるだろうと予想するのは良いのですが,本来の生活の中では避けられないような作業を本人にさせず,スタッフがやってしまうのです。もちろん,1人1人の特性を十分に見極めたうえで,Aさんにはさせるが,Bさんの場合は,こっちの課題をクリアしてから取り組ませる,のような形なら良いのですが,全く問題なくできる人にまでさせないという動きが見られました。施設としての方向が??の連続でしたが,1年後,私が発達障害の方々の担当になり,徐々に是正しました。最初に行ったのは,「毎日洗濯すること」です。その中で,洗剤の匂いが苦手である,洗濯機の容量をはるかに超える洗濯物を入れてしまう,といったことが毎日のように起こりました。もしかすると,「だから言わんこっちゃない。」と思った人もいたかもしれません。しかし,こういった日々の出来事を通じて,彼らとの関係を築き,そして,1人1人の特性を把握していくことができたと思います。支援者が特性を把握し,それを本人と共通の理解事項とした上で,一緒に対処方法を考えていく。こういった紙を1枚1枚重ねるような取り組みこそが発達障害の方々の自己理解を促し,対処できたという感覚に繋がり,自尊感情を回復することに繋がったと確信しています。

 発達障害を抱えた方々との関わりを通じて学んだことは数多いです。また,他職種の方々との支援会議のような機会から学んだことも多々あります。時々,当時学んだことを整理する意味でも,このブログに書いていこうと思います。